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創刊号(2013/9/1) 

学生×平和 1.「憲法第9条」は21世紀の平和憲法になりうるか

2013年09月01日 08:44 by teratera
2013年09月01日 08:44 by teratera

  本シリーズでは、学生の手による平和へ向けての論説や、学生と平和とのかかわりを考えていきます。第一回は、「憲法第9条」から離れた視点で見えてくる日本の今後の平和探求のかたちについて、大阪大学経済学部1年生の伊藤優作が考えます。


 

憲法が、再び動き出した

 

  先日7月21日、参議院選挙が行われた。民主党の大敗、第三極の伸び悩み、共産党への票の流出の中、自民党の一人勝ちという結果になった。 実に面白みのない選挙結果である、と感じたのは私だけだろうか。

  その理由の一つには、選挙の争点とされたものが税と社会保障の一体改革の問題、安全保障問題、外交問題、そして憲法9条にも触れることになる憲法改正問題など多岐にわたった上に内容が複雑化してマスメディアの報道が各党の政策をつつききれず、日本の国民病とも言うべき政治に対する無関心な態度も相まって有権者のマニフェストに対する理解が進まず、そのかわりに政治的に分かりやすい切り口である「ねじれ国会」が解消するか否かという極めて政策的には意味のない、政局的な話題が先行した結果、私たちの眼前に現れた選挙結果に対してそこまでの新たな期待が出来なかったという面、さらに、たび重なる各メディアの世論調査と選挙結果に大した違いがなく、あたかも選挙結果が自分の一票に関係ない出来レースであるかのごとく映ったことも原因であろう。人間というものは解答の分かっているパズルをわざわざ解くのは好まないものである。 

  だが、選挙に際し情報を集めない有権者に応じて争点を簡単化するのも考えものである。争点を一点に絞る、あるいは一点に見せかける手法は有権者の判断要素を自分の党に有利なように切り取り、早い話が有権者を「バカ化」させるのである。それがどのような結果をもたらしたかは、小さいものでは「郵政民営化」の是非にのみ争点を置き自らの大衆に対するカリスマ性を利用して大多数の議席を占有したのち、イラク特別措置法など、安全保障、平和の問題に大きくかかわる法律を何なく通した小泉純一郎政権、「既存政党の打破」「第三極」を掲げ議席を伸ばしたにもかかわらず政治思想の違いから空中分解しそうな日本維新の会、大きなものでは、「政権交代」にのみ有権者の視点を誘導した鳩山政権である。その後の民主党政権が特に外交的、経済的に失敗したかについてはコメントする余地もない。無論、彼らを信任したのは有権者たる国民であり、「小泉劇場」や「政権交代」にやすやすと踊らされたことを反せんしなければならない。だが、このような争点の一本化は各党の選挙運動を報道するメディアにも多大な責任があり、特に小泉劇場、民主党の政権交代については明らかに小泉自民党や鳩山民主党など政治組織の片棒を担ぐような報道でその責任追及はまぬかれえない。

 ともかくも今回の参議院選挙について争点が多様化したことは事実であり、その中には久しぶりに憲法改正が入ったこともまた事実である。

 昨今の尖閣諸島への領海侵犯に連なる安全保障上の対立を抱える対中国関係、竹島、従軍慰安婦問題などで悪化しつづける対韓国関係、北方四島の返還問題を抱える対ロシア関係など、周辺国との関係が一部悪化していく国際環境の中で、日本の安全保障政策の思想を担ってきたとも言うべき憲法9条を含んだ憲法改正という機運が高まってきたことは理想的な形ではないが国民にある程度憲法への関心を寄せるきっかけとなったと言えるだろう。実際、参議院選での選挙公約では、それ以前の選挙ではまばらだった憲法改正に対しての言及をほぼ全党がする結果となったことからも、各政党が、有権者が憲法改正に関して一定以上の興味を持っていると見ていたしたことを示している。

 過去にも憲法第9条の改正論議が巻き起こったことは幾度となくある。最近では、2003年に成立した先述のイラク特別措置法に基づくサマーワなど現地での復興支援が、自衛隊の憲法に対する整合性を含め議論を呼んだ。航空自衛隊の行動が危険とされていたバグダット国際空港やアルビルにも伸びるなど、派遣の前提条件である安全地帯が確保してあるかも微妙なところであり、今後の日本の安全保障思想を憲法ごと問い直すことになった。

 それから幾年が過ぎ、憲法第9条改正論議は今回の領土問題などで再興するまで眠りについた。口火を切ったのはまたもや外交問題である。麻生太郎氏の発言は、最近はナチス発言の部分ばかり取りざたされるが、彼の言う通り、確かにもっと平時に平穏に、憲法第9条を含め憲法問題は議論されるべきなのである。

 しかし、なかなか火のつくことのない問題である。せっかく議論の舞台に上がってきたのだから、この機を最大限に活用すべきではないだろうか。あくまでも、冷静に。

 

60年以上「平和」な国、日本


 

 日本は平和ボケしている、といわれることがあるが、実際、その要因である日本の平和ぶりを示すデータは多い。経済格差の大きさを示すジニ係数は共産主義を標榜する中華人民共和国よりも低水準である、ということなどだが、より直接的なのは、第二次大戦後に戦争を経験していない国の数は、アジアだけ取り上げても日本とブータンだけ、ヨーロッパはルクセンブルクなどの小国を除けばスイスとスウェーデン、ノルウェー、フィンランドのスカンディナビア3カ国のみという資料もある。大戦後も朝鮮戦争、ベトナム戦争など、冷戦下の数多くの代理戦争と、民族自決を標榜した内戦、紛争など、世界各国では戦争や紛争が続いていた。戦後60年以上にわたって、日本はこの世界にあって数少ない戦争を経験しなかった国家なのである。

 本当は記事タイトルを超え、「平和とは何か」をもっと根本的に考え、生存権、経済などにも触れていきたいのだが、紙面が足りない。悔しいが別の機会に譲るとして、より深くこの60年以上日本を取り巻いた状況を考えてみたい。

 

「なぜ」を考えよう

 

 戦争、紛争。これらは常に対立している二つ以上の集団の激突が武力衝突という形で具体化したものである。日本は第二次大戦の反省から、「二度と戦争をしない」という断固たる戦争経験者たちの未来への意志によって、その成立過程がどうだったかにかかわらず、「戦争の放棄」「交戦権の否認」「戦力の不保持」をうたった憲法第9条をこれまで保持しえたのである。国家の外交戦略としては、経済協力と軍事協力があらゆる外交カードの根底にある大きな姿勢だが、その片方を封印するということは極めて不利である。にもかかわらずこの憲法が国民的に改正を訴える運動にさらされずにいたのもその成果である。実際、岸内閣が日米安保条約を、米軍がより実質的に日本の安全保障に貢献できるようにと、良かれと思って成立させようとした新安保条約の成立に関しては、その目的とは裏腹に、国民の手によって憲法第9条を旗印に国会議事堂周辺までも巻き込む大規模なデモが行われるほどであった。安保闘争だ。当時は、徹底的に戦争を嫌悪した人々は右翼的団体など一部の人々を除き、行動の面では違いはあれど、在日米軍は拒否という点では固く結束していた。おおよそ軍隊であったり、それに少しでも似ていたりすると一目見れば即反対という強さであった。自衛隊への目も冷ややかであった。戦争は次第に「絶対悪」となった。戦争=NOは、その原因を問われることなく「戦争の悲惨さ」という極めて心情的な、社会問題分析としては現実性を著しく欠いた概念で成立していったのである。それは戦争経験者たちが生存している中でならよいのである。戦争が「なぜ」いけないのかを彼らは体現していたからだ。

 だが、時代は変わる。いつかは戦争体験者は全員亡くなられ、日本からいなくなってしまう。戦争=NOという記号的なものだけが残り、「なぜ」は失われてしまう。それはあたかも「なぜ」戦争を続けるのか、を問わずに延々と多くの人命を失わせた第2次大戦の裏返しのようだ。太平洋戦争の面にだけ固執してみても、人間は「なぜ」を常に問い続けなければ最初の命題を見失ってしまう。「なぜ」戦争がいけないかを問い続けなければ戦争はいつでも起こりうるのだ。同じように、「なぜ日本は戦後60年、一度も戦争を経験しなかったのか」も私たちは問わねばならない。憲法第9条のおかげ、とだけ答える人間は戦争の原因追及が甘い、と言わざるを得ない。21世紀の価値観においては、すでに憲法第9条の評価は戦後直後以降とは必ずしも一致しないのだ。

 国際関係論という、国際関係を分析する学問分野が存在するが、その中でリアリズムという分析にあたっての一つの論理体系がある。その観点でみれば、日本が朝鮮戦争など冷戦の中でさえ平和を維持しえたのは、日本列島とユーラシア大陸間に、西側諸国と東側諸国の軍事的勢力が均衡していた現実、つまり人民解放軍やソ連軍などに対応して在日米軍と自衛隊が存在していたことに他ならないのである。

 こちらから侵略しない、という姿勢は道徳的にも、平和を求める政治姿勢的にも全く正しい。正しいが、それで軍事的な意味で平和が訪れるわけではない。なぜなら、他国が侵略する可能性を無視しているからだ。相手国にどのような法典が存在しようが、侵略国に関係はない。他国に影響を与えるような国家法典は存在しないし、内政不干渉の原則からしてもそんな法典は存在できない。憲法第9条は、他国の存在を考慮していない孤独な箱庭の中の平和憲法なのだ。世界には確かに軍備を放棄したりしている国はあるが、自衛戦争まで禁止している国家は存在しない。モナコはフランスに防衛を依存しており、コスタリカも軍隊はないが警察がミサイルや戦車を装備するなど、到底一般的な警察の領域内にあるとは考えにくい。国連憲章でさえ加盟国には自衛権が認められている。憲法第9条は「交戦権の否認」をしているため、憲法第9条をその通りに読めば交戦出来ないのだから自衛権もない。これは少なくとも国際平和どころか、一国の平和すら守れる状態ではないのだ。

 また、ドイツの哲学者、エマニュエル・カント(1724-1804)は、その名著「永遠平和のために」のなかで常備軍の廃止を提示しているが、それでも国民の自発的な意志による民兵の結成と訓練、つまり自衛戦争まで否定することはついにかなわなかった。これは、平和を希求するにあたって軍隊を消滅させることは理想だが、戦争を侵略・自衛問わず撲滅することがいかに難しいかを示しているといえよう。

 現在、自衛隊や在日米軍に関するあらゆる問題は憲法解釈の変更や、統治行為論などという憲法を形骸化しかねない邪道な方法、よって合憲とされている。日本は戦力を持たないというが、自衛隊は英語ではJapan Self-Defense Forcesであり、Forcesは"軍”の複数形の意味がある。対外的には軍隊であり、国内向けには軍隊でないというダブルスタンダードは、自衛隊の存在を曖昧にするものでしか無い。国内外のダブルスタンダードは、現在の領土問題でも行われている。国外への政治的キャンペーンの怠慢が、現在の北方領土や竹島問題に代表される領土問題を日本に不利な方向に向けている。国内でいくら北方領土は日本の領土であると訴えた所で現実的に、国内世論を喚起する以上の具体的な効果はない。議論し問題を共に解決すべき相手は国外にいるのである。 

 現在の安倍政権では集団的自衛権を憲法解釈によって合憲に出来るのではないかと画策するような行動が内閣法制局長官人事などに表れている。憲法第9条を今日まで保ってきた人々の意志さえ冒涜する行為である。二度と戦争を起こしてはならないという国民の意思によって守られ続けてきたのであるから、その精神を一部の人間の権限で簡単に汚してはならない。集団的自衛権は、日本の防衛に直接かかわりのない国や地域への派遣、あるいは派兵を認めるものだからである。集団的自衛権をもし認めようとするのなら、それは憲法の原則にのっとり、正当な憲法改正手続きを持って行われるべきである。また、軍事的に国民、領土の安全を保証するならば、明確に在日米軍に安全保障のメインである戦闘を任せて自衛隊は後方支援に徹するという現在の日本の防衛方針を憲法に明記するか、自衛隊を合憲な防衛戦力としてまた憲法に明記すべきであろう。


 
 学生が、議論を熱くする

 

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 大阪大学経済学部経済・経営学科 伊藤優作

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