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第2号(2013/10/3)

風立ちぬ――宮崎駿引退に際して

2013年10月02日 23:50 by irie
2013年10月02日 23:50 by irie

 

 今年7月に公開された映画「風立ちぬ」。9月に宮崎駿監督が引退を発表したため、彼にとって最後の長編アニメ作品となった。引退の報を聞いたときは思わず叫んでしまうほどに驚いたが、この作品が最後となるのはさもありなんと思えた。映画を観たとき「これで監督はやりたいことを全部やったな」と感じたからだ。映画で語られる、日本の未来に対する監督の強烈なメッセージ。引退が決まった今では、それが遺言のように思える。監督が何を言い残そうとしているのか、ここではそのほんの一部を探っていきたい。



 

 「風立ちぬ」の舞台となるのは、関東大震災から恐慌、戦争、敗戦を経験する日本。現代日本によく似た、閉塞した時代の中で、若者たちがどのように生きていったかが描かれる。映画の主人公は堀越二郎。零戦などの戦闘機を設計した、当時もっとも優秀なエンジニアである。彼の夢は、美しい飛行機を作ることだった。優秀な設計家は皆戦闘機の開発に回された時代、二郎が夢を実現しようとすれば、戦闘機によってでしかできなかった。二郎は日本が悲惨な結末を迎えることを予感しながらも直視はせず、自分の夢を追っていく。

「貧乏な国がヒコーキを持ちたがる。それで俺たちはヒコーキを作れる。矛盾だ」

二郎の友人が彼に語るセリフだ。日本が戦闘機開発に力を入れることは、二郎にとってチャンスだった。科学技術は戦争で発達する。莫大な予算をかけて戦闘機を作るということを、貧乏な国までもがする時代。体力のない国でも軍事力強化が最優先される状況は、二郎が美しい飛行機を作るには一番適していたのかもしれない。だが、その皺寄せは貧しい人々に行くのである。優れた飛行機を持つ国で、大勢の人々が貧しく暮らしているという矛盾。その矛盾に日本が耐え切れなくなったとき、二郎の抱える矛盾もまた限界を迎える。



 

 戦争の波に乗って美しい夢を叶えたはずだった二郎は、敗戦とともにそれが一変するのを目の当たりにする。美しい飛行機は各地で人を殺した挙句、撃墜され、あるいは特攻して残骸の山となった。日本でも相手国でも、大勢のパイロットが死んだ。美しいと思っていたものが、実は悪魔の道具でもあったと気付いたとき、その夢は崩れる。二郎は飛行機が戦争の道具であることを知っていた。映画の中で、何度かそれを示す場面がある。しかし、飛行機を作る間、二郎がその事実に向き合うことはなかった。「美しいヒコーキを作りたいだけだ」――と。

 二郎は戦闘機を作りたかった訳ではない(民間機を作りたかった訳でもないが)。最新鋭の飛行機を作ろうと、二郎が研究会を開く場面がある。飛行機の性能を上げるため、様々な技術や装備を取り入れる計画を二郎は作った。だが、その計画では飛行機が重くなってしまう。

「機関銃をのせなければなんとかなるんだけどね」

二郎の言葉を冗談と思った研究会のメンバーは大笑いする。二郎は戦闘機でなく、美しい飛行機を作りたいだけだった。そのために精一杯努力しただけだった。それだけに現実を見せつけられたときの絶望は大きかっただろう。それでも「生きねば。」と、自分の人生に向き合う。そこにはまた別のテーマがあるのだが、ここでは割愛する。



 

 宮崎駿は、このような二郎の生き方を肯定も否定もしていない。それよりも、自分の夢を実現しようとすれば人殺しの道具を作るしかなかった社会に批判を向けている。そして、日本がもう一度そのような社会になる可能性も示している。

 最近よく言われることだが、1920~30年代の日本と今の日本はとてもよく似ている。怖いくらいに似ている。慢性的な不況、信頼されない政治、近隣諸国との摩擦、格差と少数派排除、そして震災。特に尖閣諸島問題を巡っては、中国と戦争になる可能性もあった(2013年1月、中国艦船が海自艦船にレーダー照射)。かつて、国際社会でなんとかして存在感を持とう、閉塞感を打破しようと、日本は戦争を選んだ。今の日本にその傾向がないと言えるだろうか。実際に相手を武力攻撃するかどうかはともかく、仮想敵国を作って危機感を募らせ、その国と張り合うことで無理に伸びていこうとしていないだろうか。自国の存在感を示すために、武力に頼ろうとしていないだろうか。かつてアメリカを仮想敵国とした日本は、国力の差を見誤ったために焼け野原となった。今の日本で、同じことが形を変えて行われようとしていないだろうか。敗戦でなくとも、例えば経済競争に失敗して大きな犠牲を払うかもしれない。自国の力を冷静に見極めることができているか、常に考え続けなければならないと思う。

 日本は目立たず騒がず、技術や産業を充実させていけばいい。そのためには教育が大事である。これが今後の日本の未来についての、今の私の考えだ。領土問題は解決を焦らず、ナショナリズムにとらわれず、北朝鮮に対しては地道な話し合いと経済封鎖を続けていく。アメリカとは経済協力による友好関係を保ちつつ、軍事協力は憲法を理由に断る。巧妙な外交力が日本の課題だ。日本の持つ最低限の武力は、自国からも他国からも死者を出さないためのものであるのがいい。また日本の教育水準は、先進国の中では決して高くない。教育予算の対GDP比は、OECD諸国の中で最低である。資源のない日本は人を資源としていかなければならない。今一番増やすべきなのは、社会保障費でも軍事費でもなく、教育費なのではないだろうか。そのための予算を確保するためにも、日本には他国を攻撃しない国であってほしい。



 

 二郎の約30年の半生を2時間ほどにまとめるため、映画ではあちこちに大胆な省略がされている。その空白部分を補おうとすることで、私たちはこの映画についてあれこれと考え、悩むことができる。省略は映画をテンポ良く進めるためであると同時に、監督の「考えろ」というメッセージでもあるのだろう。

 今、再軍備を主張する声が大きくなってきている。借金を背負った国が軍事に金をつぎ込み、その皺寄せが弱者に行く時代がまた来るかもしれない。夢を追う人間に、あまりに大きな犠牲を払わせる社会。そんな時代にまたしたいのか。もっと良い道はないのか。宮崎駿があの時代の日本を描いたことには、そんなメッセージがあるのではと私は感じている。そしてどんな時代であっても、どんな運命であっても、その中で人間は精一杯生きていくのだということも。



 

大阪大学文学部 入江 優 

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